セイロンティの歴史

 セイロン島  

       1948年にイギリス連邦内の自治領として独立し、72年に国名をスリランカ(光り輝く島)と改めた
      インドの南方のこの島は長くセイロンと呼ばれてきた。この国の歴史は古く、インドのマウリヤ王朝(
      BC317〜180頃)の時代にアショカ王の王子マヒンダがここに仏教を伝えたといわれている。それ
      以来仏教国として知られ、小乗仏教の中心となっていた。
       現在、この国の住民の70%が仏教を信仰するシンハラ人であるが、約15%は13世紀以降にイ
      ンドから移住したヒンズー教を信じるタミール人で、シンハラ人とタミール人とは、民族・言語・宗教の
      違いがあり激しく対立し、流血の惨事が起こった。この島には良質のシナモンが産出されたので、15
      05年ポルトガル人がやってきてシナモン貿易を独占した。この島の豊かな自然環境から、国際的貿
      易物資の産地として、ヨーロッパ人から注目されてきた。この島の中南部にあるアダムズ・ピーク(2
      243m)は仏教、ヒンズー教、イスラム教信者のすべての聖山となっている。頂上にある巨石を仏教
      徒は仏陀の、ヒンズー教はシバ神の、イスラム教はアダムの足とみなして崇拝しており、海岸地帯か
      ら続く参詣路に沿って、あるときはシナモン、あるときはコーヒー、あるときは茶樹が植えられた。茶樹
      が海抜の高いところほど良質の葉をつけることが発見されたのもこの参詣路のおかげであった。



 セイロン・コーヒー 

       1658年、この島にオランダ人がやってきて、ポルトガル人を一掃。彼らはシナモンの生産と輸出に
      力をそそぐ。そのほかに、早くからアラブ人によりコーヒー樹がもたらされていた。しかし、17世紀に
      は土着のシンハラ人はコーヒーを飲料として用いることを忘れてしまっており、若い葉を彼らのカレー
      料理の味付けに使うか、そのジャスミンに似た優雅な花を仏陀の祭壇に用いるだけであった。
       オランダ人は比較的遅くコーヒーを飲みだしたようで、1680年ごろまでは知らなかった。しかし、18
      世紀にはいるや、この嗜好品の生産と販売に熱意をそそぐ。ジャワに大コーヒー園をつくり、その製品
      を大々的にヨーロッパに売り込み、1730年頃にはイギリス人の販売するモカ・コーヒーを圧倒。17
      40年には、彼らはセイロン島にもコーヒー樹を植え始めた。しかし、その農園を海岸から近い低地に
      つくったため、競争力のある良質のコーヒーをとることができず、不成功におわる。
       1796年に島がイギリスの植民地になった後、イギリス人はアダムズ・ピークへの参詣路を中心に
      内部丘陵地帯へ向けての交通路を開き、高地に農園を作ることが可能になった。
       政府もコーヒー園を小農園からプランテーション方式に拡大することを支援。キャンディを中心とした
      中部地帯はコーヒー景気にわいた。
       コーヒー園労働者としてインドからタミール人が多数移住してくるのは1840年以降のことである。
       アッサム茶の発見のニュースはこの島にも伝えられたが、ブームに沸くコーヒー業者からは無視さ
      れた。



 コーヒー園の発展 

       1869年には、17万6000エーカーの土地からコーヒー豆を収穫していた。コーヒー園はアダム
      ズ・ピークに向けて上方に上方にと広がっていった。1877年には、コーヒー園の全面積は27万5
      000エーカーにふえた。
       しかし、プランターたちはいつまでも繁栄に酔いしれることはできなかった。思いもよらない災害が
      彼らを襲った。それは空中を浮遊する微生物であった。この菌が結局この島の経済を一変させてし
      まった。



 コーヒー園の潰滅  

       ヘメレイヤ・ヴァスタトリックスというこの菌がコーヒー樹の葉につくと、まずオレンジ色のしみが葉
      の表面に現れ、やがて葉が落ち、この樹からはわずかな収穫量しか豆をとることができなくなる。
       この菌の発祥地はアフリカで、胞子が貿易風に乗ってセイロン島に到着したのだという。始めは、
      新しく植えられた樹を持つ地域だけにこの現象が見られたが、やがて近隣地区に広まっていった。
      しかし、プランターたちは栽培をもっとうまくやれば補えると信じてがんばった。学者たちが声をあげ、
      菌害が広がる前に病気にかかった樹を切り倒して焼いてしまうことを勧告したが無視された。病原
      菌は途中からものすごい勢いで島全体に広がり、病にかかった樹からは一度葉が落ちると二度と
      芽が出ることはなかった。



 キナの生生産 

       コーヒーのプランターたちはほとんどが破産。多くのものが、タミール人労働者とともに退散した。
       次に取り上げた植物はキナノキであった。キナノキは南アメリカのボリビヤやペルーのアンデス
       山脈の東側、標高1300mから3000mの高地に生息する喬木で、高さは25mに達するという。
       原住民であるインディオたちは、この樹の樹皮がマラリヤ病に効くことを早くから知っていた。こ
       の地方を征服したスペイン人たちがヨーロッパに持ち帰った。キナはたちまちヨーロッパでもっと
       も有名な解熱剤のひとつとなり、マラリヤの特効薬として使用された。
       こうして、島のいたるところにキナノキが植えられた。プランターたちの熱意は報いられ、高く売れ
       た。こうなると、誰も彼もが計画性もなくごぞってこの樹を植えた。あまりに多産したので、価格が
       下落した。キナノキがコーヒーと同じ需要があるはずもなかった。プランターたちは、ほかの植物
       を探すほかなかった。



 セイロン茶の登場 

       1839年、カルカッタの植物園長であり、インドのティー・コンミッティーの理事であったヴァリック
      博士からアッサム茶の種がセイロンのペラデニヤ植物園に送られた。
       また、モーリス・ウォームズは清国へ航海した帰りに切り枝をセイロンに運んだ。この切り枝はプ
      ッセラワ地区にあった富豪ロスチャイルド家のエステートにあるコーヒー園に植えれた。この樹か
      ら茶が生産され売れた。
       1866年、アーサー・モリスがアッサムの茶園を調査するため、セイロン総督からインドに派遣
      された。1860年から64年にかけてのインド空前の茶園ブームの話が伝わったからだ.モリスは
      充分な調査結果を携えて帰ってきたのだが、当時セイロンはコーヒー・ブームに沸いており、この
      調査に耳を傾けるものはいなかった。
       一方、スコットランド人のジェームス・テーラーは1852年に来島し、キャンディ近郊のルーラコ
      ンデラに入った。キナノキの栽培についてはペラデニヤ植物園で学んだが、このときキャンディ地
      区が茶樹の栽培にとても適していることを知った。そこでテーラーはルーラコンデラに茶園をつくり
      ペラデニヤ植物園のアッサム種を植えた。やがて収穫し、これをカルカッタに見本として送ったとこ
      ろ、評判が良かった。。1873年にはこの茶園の茶はロンドンに送られた。大成功だった。
       一方、コーヒー樹にさび病が出始めたのは1860年ごろのことであったが、コーヒー業者はテー
      ラーの成功を認めたがらず、コーヒー園を茶園に変えず、壊滅的なダメージをこうむる。そして、キ
      ナノキの栽培に取り組んだのである。
       ここで、茶の種を買えた人たちは死んだコーヒー樹の間にこれを蒔いた。気候と地味が茶樹にと
      って最適であり、アッサム種をまいとこともあたった。



 セイロンティーの勝利 

       トーマス・リプトンは1890年、莫大な資本をセイロン茶業に投資することをコロンボで発表した。
      セイロンに自ら大プランテーションを持ち、自分の茶園で作った紅茶を盛大に販売すると宣言。1
      895年には全島が大小のプランテーションによって占められ、インドに次ぐ第二の紅茶生産国と
      なった。


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